香港の思い出
私が香港に住んで、と言ったら大袈裟で、
まぁいわば ” 間借り ” するように棲み着いていたのは、
確か91年、92年頃だったろうか。
私が住んでた地域はとても危険で猥雑な界隈なのだそうで、
そこに住んでいる、と言ったら口をきいてくれなくなった香港人までいた程だった。
そういえば、函館に棲み着いていた頃も、地元の人に強く引っ越しを進められた土地だったっけ。
その頃の、
ちょっと前の香港の、
私の棲み家の近所では、
朝、市場でご飯を食べる人が沢山いた。
中には、サラリーマン姿の父さんと、
小学生とおぼしき制服を着たボクとで食事をしていたり、
喧騒の中、
金網の向こうの薄暗い市場の中では、
所狭しと並べられたテーブルに、
不思議な一家団欒があったのだ。
香港は昔とても貧しくて、
みんな寝る間も無く働いていたと言う。
土地が無いので家賃が高く、
一部屋に二家族、あるいは三家族が住んでいたり、
一家族でも、一家全員が一度には寝られるような空間が無く、
昼間働きに出られないじじばばは、
夜は公園で過ごしてたりしたそうだ。
台所がある家は少なく、
それで食事は屋台でするのが一般的なんだそうだ。
その頃(私が棲んでた頃)も、
朝も昼も夜も、
市場では沢山の人がご飯を食べていた。
ほか弁も流行り始めていたけれど、
香港で「弁当」と言ったらまだ主流は仕出し弁当だった。
弁当と言っても日本のそれとは全く違って、
いわば「中華料理」の出前で、
1メートル以上はあるかもしれない大きな風呂敷包みを運んでくれるのだった。
包みを開くとそこにはご飯や大皿に乗せられたおかず、それと人数分の食器が大きな大きなザルに乗せられていて、中華の円卓みたいだった。
ちなみに、キッチンがあるような裕福なお宅には、
お手伝いさんもいるので、
ご飯を作るのはお手伝いさんの仕事。
つまり香港では、
裕福な人でもそうではない人でも、
食事の支度と後片付けは外注化(社会化)しているのだった。
外食は、安価なものから高価なものまで、
実に様々に発達している。
そうそう、
香港にはクリーニングとは別に「洗濯屋」というのがあって、
これは大袋にいくら詰め込んでも一律料金、
朝出すと洗って渇かしてまた袋に詰め込んで夜には戻してくれるというものだった。
あの土地では、
食事の他にも社会化しているものが沢山あったっけ。