終戦のエンペラー
彼がとても楽しみにしていたのでロードショー封切りで行きました。
<全体を通じて>
「史実に脚色を加えるのは楽しめるけれど、史実にフィクションを混ぜた作品は苦手」
私はそういうタイプなんだな、と再確認しました。
<素性の判らない映画>
ハリウッド映画でも無い、邦画でもない、その素性の判らない感じが最後まで気持ちが悪かったです。
(予備知識0で行ったので、松竹映画なのか、松竹が配給だけしてるのか、マジで謎でした)
後から調べた所、“日本の女性プロデューサーがキャスティングしたハリウッド映画”ということだったようです。
<フィクションを支え切れない小道具達>
例えば、焼け出されたお母さんが巻いてる「ナニカ」。
時代を考えるとそれはどう考えても「手ぬぐい」になるのですが、私にはどう見ても「バンダナ」に見えました。
そしてその「ナニカ」を巻いたお母さんは子どもを抱いて座り込んでいるのですが、その姿は空襲を生き延びたお母さんと言うよりも、ベトナム戦争のワンカットに見えてしまいます。
そういうちょっとした部分が「ははは、ハリウッドらしいや」と笑って流せる程出鱈目では無く、かと言って邦画では違和感が残るレベルで…
それが先に書いた「素性の判らなさ」に繋がってたと思います。
美輪明宏さんが、「私は偽物の女だから、(宝石は)偽物を付けられないのよ、全部本物にしないと」と言う様なことを言っておられましたが、
フィクションを支える為にはやはりそれ以外の部分は本物で固めないと全部いんちきになるんだな、と思いました。
<退屈な恋愛エピソード>
一緒に観た彼は恋愛シーンが長過ぎてとても退屈だったそうです。
この恋愛エピソードこそが、後から調べた所、「証拠はないが、想像力を膨らませて物語を作り上げようと考えた。」部分(フィクション)であり、その最たる人物が「架空の登場人物“アヤ”」ということだった様です(引用・公式サイト)。
今思うと、このフィクション部分がことごとく画面上に違和感を与えていました。
画は美しく幻想的なのですが、残念ながらストーリーを処理落ちさせています。
この、映画に「間延び」をもたらす恋愛エピソードのねじ込み感は…そうです。つい先日観た「風立ちぬ」にそっくり。
私達にとってはまさかの「ストーリー上不必要なアッパークラスの恋愛模様」のお代わりでした。
(あ、でも「風立ちぬ」は、「この老人のファンタジーは一体いつ終わるだろう…」と終始見通しが立たない状態で2時間6分を過ごしましたが、本作品は一応、現在地が見えていたのでその点では楽でした。)
<乱入する「桃井かおり」>
「私ぃ、桃井なのね。桃井は桃井よぉ」って感じで相変わらず画面を「桃井かおり」で一杯にしておられました。
もう、おかまいなしに「桃井かおり」。クラッシャー・モモイ。ご立派。
<呪わしい「昭和42年生脳」>
これはこの作品に限っての事ではないのですが…CGが…気になる…
いっそのこと子どもの頃から見慣れている「書き割り」なら脳みそが勝手に「劇中のリアル」に補正してくれるのですが…
我が「昭和42年生脳」は、CG部分を観ると「イブツ!イブツ!イブツ!」と警報を出し続けるんです…(;_;)
今後、書き割り使った映画なんて望めないでしょうから、なんて不幸な体質なんだ…と嘆いています。
<関連キーワード・日記>
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